仕事がバリバリできて素敵な夫と可愛い子供とのプライベートも充実した公私ともに満足できる女性。それが若い頃思い描いていたカッコいい女性だった。
幼い頃からの夢が叶い仕事を始めて10年以上、仕事上の役割も可愛い後輩も増えた。恋愛もして好きなことや好きなものにも囲まれた。恋人から貰うプレゼントも自分へのご褒美と称したジュエリーも増えていった。
「いつも好きなことして人生楽しそうだね」周りからの言葉がたとえお世辞でも嫌味でも、「うん、そうだよ。毎日楽しいよ」と充足感へ変化させられるくらい日々の生活に満足していた。
それが少しずつ変化したのは結婚出産を経験したからだ。
仕事は休職し、周りに置いて行かれる焦りや社会人として何もできていないことへの罪悪感に喪失感。
どれだけ大切な人でもずっと一緒にいれば好きな時に好きなだけ会っていた頃よりも上手く噛み合わないことがある。
慣れない育児は命懸けで産んだ可愛い我が子に対しても負の感情を抱かせた。
「寝れてる?抱っこかわろうか?たまにはひとりで出掛けて好きなことしておいで」夫の優しさすら「もっと頑張れよ、周りの人はもっと楽しそうだよ」と勝手に脳内変換されどんどん卑屈になっていった。
いつもニコニコして穏やかな幸せいっぱいの生活を思い描いていた。忙しくてもオシャレで綺麗な母親でいたかったし、妻でいたかった。
でも実際は自分に手をかける時間は減り、子供にメイクが付かないようにスッピンに近くなった。子供と思いっきり遊べる汚れてもいい服、子供が危なくないようにジュエリーは外して時々箱の中を眺めるだけになった。
反対にSNSを見ればニコニコしたお洒落な奥様やお母さんが居た。
あれ?なんで自分はそっち側じゃないんだろう?画面越しじゃ分からない、知り得ないことがあると思っていても、落ち込むのには十分すぎる。想像していた日々とは色んなところが違いすぎて溜息が続く。
ある日、何となくジュエリーボックスを開けて大きめの石がついたリングに指を通した。日々の家事育児ですっかり変わってしまった手指には、あんなに光っていたジュエリーもどことなく燻んで見える。
やっぱりそうだよね、と落胆や諦めのような澱んだ気持ちで苦笑しながらリングを外そうとすると、いつから見ていたのか、娘が「うわぁ、おかあしゃんキラキラだねぇ!おかあしゃんのおててかわいいねぇ!いっつも○○ちゃんと○○くんを抱っこしてよしよしする素敵なおててだもんねぇ!」と大きな目の大きな笑顔で話しかけてきた。
そうか、この子にとっては澱んだ私もキラキラしてるんだ。
それがあったから、と言うわけではないものの、後日、妊娠前によく着ていた服を着た。授乳できないからとハンガーに掛けたままになっていたその服は夫が気に入っていた服だ。気付いた夫は「久しぶりに見たけどやっぱり似合う。いいね、それ」と穏やかな目で言ってくれた。
そうだ、この人は真っ直ぐな気持ちを言葉に乗せて真っ直ぐに伝えてくれる人だ。
ジュエリーも服もまだまだ制限があるし、家族と一緒の生活に辟易することもある。
でも夫と子供たちとの愛おしい時間も自分だけの時間もいつもすぐ隣にある。ただ自分がそれに気付かなかったり忘れていたり、自分勝手に制限をかけて見えなくしているだけだった。
学校に仕事、家族や友人との人間関係、結婚や妊娠出産、育児、介護。環境だけじゃない、周りからの言葉や関係性、私達には数えきれないくらいの転機がある。そして、上も下も見始めるとキリがない。
今この瞬間、自分の立ち位置で前を見て歩けばいいしそれが幸せと満足できる近道なのかもしれない。
年度が変わり数年ぶりに仕事に復帰する予定だ。その時にまた忙しさや慣れない生活で疲れるのかもしれない。でも自分に余計な制限をかけずに少しずつでも好きなものを身につけて好きなことをして、私なりの、私達家族なりの、キラキラした時間に変えたいと思う。